写真・図版
特攻隊員だった時の板津忠正さん(後列左端)と仲間たち。隣は鳥浜トメさん=長男昌利さん提供
  • 写真・図版

 愛知県長久手市の元会社員板津昌利さん(67)は、父親が亡くなってから「すごい人だった」と思うようになった。沖縄特攻の生き残りで、知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)の初代事務局長だった父板津忠正さん(2015年に90歳で死去)のことだ。

 子どもと遊ぶ時にも手を抜かない厳しい父だった。キャッチボールも全力投球しないとやめさせない。スキーもリフトを使わず、歩いて登ってから滑らせた。

 名古屋市出身の父は戦争中、旧逓信省の航空機乗員養成所から旧陸軍飛行学校に編入。1945(昭和20)年4月、特攻隊員になった。

 知覧の基地から出撃したが、機体故障で不時着。その後も2度出撃しようとしたが、天候不良で果たせず終戦。戦後は名古屋市職員になり、戦災復興や新幹線名古屋駅開業に伴う事業に取り組んだ。

 自分だけがなぜ生き残ったのか。痛切な思いは胸を去らなかったらしい。休日のたび、知覧の仲間の慰霊の旅を続けた。1036人とされる陸軍の沖縄特攻の隊員の遺影集めを始め、50代前半で早期退職し、全国を回った。

「やることがあるから生かされたんだ」

 「うちの息子は帰ってこない…

共有